日本人がラクロス豪州代表でW杯へ
© photograph by Sachiyo Yamada オーストラリア代表選手として、イングランド代表と戦う山田。日本ラクロス界を思うからこそ、今、この地で戦っている。
「正直、代表に選ばれた時は、めっちゃ嬉しかったんですけど、なんかポカンとしたというか。これが率直な気持ちで。目標をクリアできてしまったという戸惑いなのか、いやいやまだ通過点だという落ち着きなのか、それは正直わからなかったんですけど」
山田幸代、34歳。
職業は、プロのラクロス選手だ。
今年7月に英国・ロンドンで開催される女子W杯に“豪州”代表として出場する。
ラクロスの場合、直近5年間のうち、2年以上当該の国や地域でプレーしていれば出身地以外でも代表になることができる。とはいえ、過去に2度のW杯優勝を誇る世界でも指折りの強豪国の代表に日本人が加わるというのは、もちろん初のことだ。
日本代表として活躍してきたが……大きな壁が。
山田が日本代表ではなく、豪州代表を目指したきっかけは、12年前に遡る。
「2005年のW杯に日本代表として出場したんですが、そこで自分の一番弱い部分を見たというか。そこまでは結構、とんとん拍子で来ていたんですけど……」
京産大でラクロスを始めると、1年後にははやくも年代別日本代表入り。順風満帆だったはずの競技生活は、W杯という大舞台で世界の高い壁にぶつかった。
「今まで入っていたシュートが全然、入らない。思うようにいかなくて、なんか気持ちが“飛んじゃった”んです。表面上はチームを勝たせようとしていたけど、自分のことしか考えられなくなっていた。そんな時に、豪州代表と練習試合をしたんです。そこで、ボコボコに負けちゃって」
その時は練習試合だったが、結局、豪州はW杯本番でも決勝で前評判での不利を覆し、米国相手にダブルスコアで圧勝。ここ一番での集中力と、精神力の強靭さは、当時の山田にはまぶしく映った。
「とにかくその勝負強さを学びたいと思って。そう思ってからは迷わなかったです。生活が変わる不安とかはなかったですね。むしろ自分が成長したい、と思っていましたから。行ってみないとわからないことがたくさんありますからね」
日本人選手が外国で直面する言葉を巡る3段階。
2008年に豪州へと軸足を移し、'09年にケガで日本代表から漏れると、本格的に豪州代表への挑戦が始まった。
「コミュニケーションの部分が一番大変でした。いまでも大変ですけど(笑)。最初は私も『何とかなるわ』と思ったんですよ。自分から積極的に話もするタイプですし。でも、やっぱりはじめはパスがもらえなかったりする場面もありました。
うまく言えないですけど、豪州では3段階、感覚が変わった瞬間があって。
1つ目は行った直後。それこそパスがもらえないくらいで『なんだよお前、誰だ?』みたいな。『私たちの中に入ってきやがって』という、排他的な感じですかね。
次の段階は自分のプレーを見せて、少しずつ納得してもらいはじめた時。『お、こいついいじゃん。やってみなよ』という感じ。『凄いね、サチ頑張っているね』っておだてられるのが2段階目。
それで面白いのが、最後に『自分たちと同じレベルに来たな』と感じた瞬間に、どんどん落とし始めるんですよ(笑)。
例えば代表の選考会でも、コーチが何かを言った時に私がちょっとアイシングとかをしていて聞けなかったりすると、絶対に教えてくれないんです」
最初のお客さん扱いが終わると、蹴落とそうとしてくる。
「お客さん」ではなく、「ライバル」として認められる。
そこからが本当のスタートラインだったという。
そうして一段ずつ、異国の地で階段を上がっていった山田だが、前回13年のW杯代表からは、最終選考で落選した。
「それも言葉の壁が大きかったですね。ハッキリと『Language barrier』だと言われましたから。そこで『30秒しかないタイムアウトの中で、俺が言うことを全部理解できるか?』と言われたんです。その時に私は理解できる、と自信を持って言えなかったんですよ。そうしたら『そこなんだよ』と。『ちょっとサチの方がレベル的に高くても、それだったら若い選手を使っていく』とはっきり言われた。英語の勉強はそれからかなりしましたし、変えなきゃいけない部分というのも気づきました」
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言葉が通じなくても気持ちが伝われば良い、ではダメ。
時にチームメートとも激しく議論し、言葉を学び、1人の豪州代表として自分が戦おうとしていることを、チームメートに態度で示していった。
「ちょっと実力的に抜け出たくらいでは納得してもらえない。“出すぎた杭”にならないといけないんです。シンプルですけど、凄く厳しい。
でも、それも言葉なんですよ。
言葉だけではなく、コミュニケーションも含めて。結局自分が思うことが伝えられないからこそ、評価されない部分はあって。『英語なんてわからなくても、自分の気持ちが分かってもらえればいい』と最初は思っていましたけど、やっぱり何ともならない場面が多々ありましたね。文化の中に入っていくのがやっぱり一番、難しいと思います。でも、『叩かれ始めたら、自分が伸びてきた証拠』と思えるようになれば、だいぶ楽になりましたけどね」
昨年、ついに豪州代表の18人に選ばれた!
そうして、昨年末、約100人の候補から、代表の18人に選出された。
一方で、豪州代表を選んだことで、もう日本代表に戻ることはできない。
「私の選手としての目標は、“世界の舞台で金メダルを獲ること”です。それは、選手として世界のトップを経験している人が1人でもいれば、日本に帰ってきたときに指揮官として日本のチームをメダルに導けるから。もちろん葛藤はありましたよ。プレーヤーとして上手くなって、日本代表に入って、代表の選手たちを一緒に伸ばしてメダルを獲りに行くという目標の方が良いのか……。でも、自分の年齢とかも考えると、1人で『世界でこういうことを見てきたんです。監督、こうしましょう』というよりも、監督として世界を見る中で、その中で日本のチームを見て、そこに順応させていく方法を使った方が、日本がメダルを獲るのは早いなと思ったんです」
「最終的な目標は、始めた時から変わっていない」
関西出身らしく、カラカラと楽しそうに目標を語る山田だが、単身でのりこんだ異国の地での戦いは、決して楽なものではなかっただろう。
ラクロスの本場で代表に食い込むためには多くの苦労があったはずだ。
それでも、山田のラクロスへの想いは未だに尽きていない。
「最終的な目標は、私がラクロスを始めた時から変わっていないんです。子供たちに『おおきくなったら何になりたい?』と聞いた時に『ラクロス選手になりたい!』と言ってもらえる競技にしたいという気持ちは、全くぶれていなくて。
そういう最終目標があるのが、立ち止まらない理由なのかもしれませんね」