石川直宏と佐藤由紀彦が今語る本音
© photograph by Asami Enomoto 現在のJリーグを見渡しても、FC東京にとっての石川直宏ほど「バンディエラ」という言葉が似合う選手がどれほどいるだろうか。
ゴツゴツした質感で、同じ匂いのする2人は、かつて同じ青赤のユニホームに袖を通し、1つのポジションを争った。
石川直宏と佐藤由紀彦。2002年に交錯したユキヒコの想いは、ナオによって今に受け継がれた。そのナオは、12月2日のJ1最終節G大阪戦(味スタ)と、翌3日のJ3最終節C大阪戦(駒沢)を最後に、今季限りでユニホームを脱ぐ。
その試合を前に、バトンをつないだプリンスと呼ばれた2人に、「実はあの時って?」、「FC東京らしさって?」、「そしてこれからは?」と、ちょっと癖の強い話を聞いてみた。
――かつて2002年に1年間だけ2人は同じFC東京でプレーしていました。その当時は、お互いのことをどう思っていましたか?
石川直宏「当時のFC東京と言えば、アマラオとユキさんだった。自分と同じポジションの選手だったから、ユキさんを超えなければ自分は試合に出られないと思っていた。2002年の東京は、原(博実)さんが攻撃的なサッカーを掲げてガンガン攻めるスタイル。原さんが『今来たら試合に使っちゃうよ』と言ってくれたから、僕は移籍を決断したんですが、もちろん試合に出るためにはポジションを奪わないといけなかった。だけど、自分の力を示すことができれば勝負できると思っていたし、いつかは肩を並べ、その座を奪い取るという想いは強かったですね」
佐藤由紀彦「僕の第一印象は、生きのいいチャライやつが入ってきたなって思っていましたよ」(一同笑)
佐藤「自分の印象としては、マリノスってこういう選手というイメージがナオにはピッタリとはまった。ナオが加入してきた当初は自分がけがをしていたので、試合を外から見る機会も何度かありました。自分とは違うモノを持った、すごく面白い選手だなと思っていましたが、そう思っていても周りにはそういう素振りを見せませんでした」
――当時、2人はそれほど多くの会話を交わさなかったと聞きました。
佐藤「ナオはこういう性格だから、誰に対しても笑顔だし、オープンに接していた。でも、その当時の自分は、どちらかというと殻に籠もってやるスタイルだったし、そこに強い信念を持っていた。ナオだけじゃなくて誰かと群れるよりも、自分のサッカーを極めたいという気持ちの方が強かったのだと思う」
石川「話しにくいわけではなかったけど、ユキさんは雰囲気や、オーラのある選手でした。ロッカーも近かったから、ユキさんが来たら場の雰囲気が変わるのが分かったし、そういう姿勢を包み隠そうともしなかった。その翌年ユキさんはマリノスに移籍したけど、逆に俺はユキさんにマリノスっぽさを感じていた。ちょっと、周りにいる東京の選手とは違った雰囲気だったのを覚えている」
石川「ユキさんがクロスを上げて、俺が切り込んで」
――当時、ナオにもしもアドバイスする機会があったら、どんなことを話そうと思っていたんですか?
佐藤「得点力や、中に切り込んでいくプレーはナオのストロングポイントだと思っていた。ただ、サイドは一番読まれやすく対策されやすいポジションなんです。たとえば相手のサイドバックに普段ボランチをしている守備が得意な選手を置いてきたり、分析も進んでいるから何度も繰り返し映像を見て、選手の特長や癖も研究してくる。だから、相手に読まれていても、上げられるクロスがあれば、もっとプレーの幅が広がって点が取れるんじゃないかなと思っていました。
リーグも終盤に入ってきて、もちろんストロングポイントを失ってはいけないけど、クロスがあれば、それがフェイクになってもっと点が取れるようになると思っていました」
石川「確かに、そこまで自分にはクロスの精度がありませんでした。まずは目の前の相手を抜いてゴールに向かって行くというプレーにこだわっていたし、当時は自分がどこまでも突き進んで壁をぶち破っていこうと思っていた。もしかすると、その先の限界は少し見えかけていたかもしれない。でも、そこまでたどり着いた後に、また考えようと思っていました」
佐藤「確かに難しいところなんですよ。逆に、僕もナオのように中に入っていくプレーを増やすように指摘されたこともあった。でも自分には右足のクロスがあるから、なかなかそれを聞き入れることができなかった。強いポリシーがあって、主観が強かったから。若い時は、特にこだわりが強い。ナオもドリブルで行ききることができるから、クロスがなくても大丈夫だった。それに千切ってクロスを上げることもできただろうしね。
いつかすごく強固なサイドバックと対峙して路頭に迷った時、何か1つあればいいと思っていたけど、そのシーズンはまだノッキングを起こすこともなかった。僕がそうだったように、行けるところまで行って、そこから試行錯誤していった今の姿を見ていると、あの時アドバイスを贈らなくて良かったのかもしれませんね」
――ユキさんはけがから復帰しても試合に出場できない時間が続きましたが、その時はどんな想いでいましたか?
佐藤「ひたすら練習に打ち込むしかないなと思っていました。今までのサッカー人生の中で、一番練習した時期だったと思います。当時は1人で3部練習もやっていましたからね」
石川「そこまでやっているとは知りませんでした。当時のFC東京の選手は、誰もがピッチで出し尽くすスタイルだった。だから、それぞれが本当に練習に打ち込む姿を見てきた。俺が先に練習を上がって食事をして、マッサージを受けて帰ろうとする時に、まだユキさんがグランドで残ってクロスの練習をやっている姿を見たこともあった。
自分自身、マリノスで試合に出られなくなって、FC東京に来たという経緯があったので、危機感は常に持っていました。でも、同時にいつか一緒に試合に出たいと思っていた。ユキさんが右サイドからクロスを上げて、俺は左サイドから中央に切り込んでいく。そういうイメージは心のどこかでいつも思い描いていた」
「26歳で原監督に噛み付いた」という2人の共通点。
――当時、一緒に試合に出たという記憶は?
佐藤「記憶にあまりないですね」
石川「1試合だけは、覚えている。味スタで一緒に試合に出たと思うんだけど、それがうれしかったことが記憶に残っている」(注・2人がリーグ戦で同じピッチに立ったのは3試合で、わずか53分間しかない)
――当時のユキさんはため込んだエネルギーが、原監督との衝突を生みます。ナオはそのことを知っていましたか?
石川「俺とかモニ(茂庭照幸)はアジア大会に出ていて不在だった。その話は後で少しだけ聞きました。でもユキさん、俺にもあったんですよ、2007年に同じような境遇が……。ユキさんは札幌戦のアウェーで調子が良かったのに、途中交代を命じられたんですよね」
佐藤「そうそう(苦笑)。前半で代えられちゃったんだよね」
2002年10月12日。その日は、J1リーグ2ndステージの札幌戦が札幌厚別公園競技場で行われていた。そのハーフタイム中のロッカールームで事件は起こった。
その日先発した佐藤は、前半から体がよく動いていることを自覚していた。チームは前半のうちに2点を奪い、自身もケリーの得点をアシストし、納得のプレー内容だった。だが前半だけで交代を命じられ、それまでの半年間続けてきた努力を全て否定された気分になった。張り詰めていた糸がプツンと切れた。次の瞬間には頭と体が同じ速度で動かず、気づいた時には原監督にかみついていた。佐藤は以前、「その時の内容は覚えていても言えない」と語っていた。
――当時の原さんに、自分の意見を通そうとした選手はいなかったと思います。
佐藤「いやー馬鹿でしょ、本当に(苦笑)」
――ただ、その話を聞いた時は驚きました。同じような境遇がナオにもあったので。ちなみに、2人共に26歳の年でした。
佐藤「そうなんだ、面白いね」
石川「いや俺の方がひどいですよ、きっと(苦笑)」
ナオは2007年当時、右サイドだけでのプレーに限界を悟り、新たなスタイルを模索し始めていた。その過程で、東京入りを後押ししてくれた原との間に溝が生じた。当時の彼は、縦への突破と、中にカットインしてシュートという形しか持たず、自分の成長に行き詰まりを感じていた。
するとその年、ナオは突然ポジションを変えて中に、左にとピッチを浮遊し始めた。原監督は、その度に右サイドに張るように指示を繰り返した。それでも言うことを聞かないナオをベンチへと下げ、「お前はこういう選手だろ」と、過去の映像も見せた。だがナオは、その言葉に耳を傾けようとしなかった。
そして、ある練習試合で、原は同じようにピッチを自由に動き回るナオを前半途中でベンチへと下げた。次の瞬間、タッチライン際にあったスクイズボトルを蹴飛ばし、ベンチにも戻らずに練習グランドを囲むネットに身を預けて座り込んでしまった。45分ハーフが終わると、そのままベンチを一瞥もせずにトレーニングルームへと籠もり、バイクをひたすらこぎ続けた。もちろん、その場は非公開練習ではなく、周りには見学に訪れるファン・サポーターもいたため、騒然となった。
佐藤「コーチの徹さんの言葉はスゥーっと入ってくる」
石川「僕は、ユキさんと違って決して調子が良くはなかった。でも、自分がもっとこうしたいというイメージがあった。当時はコミュニケーションの取り方もうまくなかったから、うまく口で説明できないいら立ちもあってモノに当たってしまった。最低ですね」
佐藤「いいね、普段とのギャップが。へぇーそうなんだ。でも、それが2人共26歳だったというのがすごいね」
――そして、2人を救ったのも同じ人物でした。当時、コーチの長澤徹さん(現・岡山監督)は、あふれんばかりの2人のエネルギーを受け止め、親身になって話を聞いてくれたそうですが、2人にとってはどんな存在でしたか?
佐藤「テツさんは、今まで出会った指導者とは入り口が違っていた。接し方や、アプローチの仕方がまるっきり違う。今、僕も指導者になって参考にしているところがあります。
まず、『お前はどう思う?』と言って、こちらの主張を全て吐き出させた上で、自分の意見を言うんです。だから、スゥーッと言葉が入ってくる。でも、いきなり俺はこう思うぞと言われたら、僕は持っている意見を言いますが、胸に抱えて吐き出せない選手もきっといると思うんです。たかが数秒のシンプルな会話であっても、そういう存在はありがたいんですよ。
当時、僕は札幌との試合後に空港ですぐ電話して『テツさんやっちゃいました、俺』って話したら、『大丈夫だよ』って言ってくれたんです。『でも、いや多分、3カ月は引きずると思います』ってやりとりをして東京に帰ってきて休み明けに会った時に、原さんから話を聞いたんでしょうね、『お前やっちゃったみたいだな』って笑顔で言って話を聞いてくれた。その時も、『何でそんなことになったの?』って自分が思っていたこと全てを吐き出させてくれた。僕にとっては、そうやって受け止めてくれる唯一の指導者でした。
その件があって以降、よけいにもっとトレーニングに励もうと思えるようになったし、そのきっかけを与えてくれた人です。その時、テツさんが僕に言ってくれたのは『今すぐに結果は出てこないかもしれない。でも、継続すれば必ず報われる』という言葉だった。だから励めたし、翌年にマリノスでリーグ優勝できたのだと思います」
石川「僕も切り口は、まさにそのままですね。全て自分の想いを吐き出させてくれる。最初は頷いているだけなんだけど、本当に順を追っていろんなことを話した。サッカーの話以外にもプライベートなことまで話をしていました」
――僕が取材してきた中でも、不思議な魅力を持った指導者ですよね。自分が主張したいことがあると、どうしても人は身ぶり手ぶりが大きくなるんだけど、テツさんは腕を組んだままで、自分が思うことがあってもそれを解かないんですよね。
佐藤「もう、仙人だよ(笑)」
石川「ですね」
