上田監督の「ええで」に隠された秘密
【記者が振り返る闘将・上田利治】
阪急(現オリックス)の黄金時代を築き1日に肺炎のため80歳で亡くなった名将・上田利治氏を、日本ハム監督時代の1997、98年に担当記者として取材した。
せっかちに歩く背中がいまも目に浮かぶ。
“ウエさん”の健康法は毎朝の散歩。沖縄・名護市での春季キャンプ期間中は、まだ暗い午前6時から約1時間。担当記者一同、同行させてもらったが、還暦を迎えた年齢に似合わぬハイペース。どちらかといえば競歩に近かった。
明け方まで酒を飲み、そのまま参加した記者には付いていくのも大変で、途中砂浜に嘔吐する者もいた。そんなときでもウエさんは「どうした、えずいたか!?」と本気で心配してくれた。
当時の日本ハムの本拠地はまだ札幌ではなく、東京ドーム。ウエさんは都内の自宅からタクシーで“通勤”していた。試合に負け、東京ドーム前の大通りで手を上げて空車を探すが、そういうときに限ってなかなか見つからない。イライラして「ええい、歩いて帰りますわ!」とスタスタ歩き始めることが何度かあった。自宅まで30分ほどかかったと思う。頭に血も上っていただろうが、なにしろせっかちなのだ。
ウエさんの代名詞といえば「ええで節」。若い選手を「ええで、ええで」とほめてその気にさせるのがうまいといわれていた。
確かに“乗せ上手”だったが、実は担当記者には「僕は『ええで』なんて一度も言ったことがない」とこぼしていた。
「僕が生活してきた地域で『ええで』という言葉は使わない。言うとすれば『ええなぁ』とか『ええよ』ですよ」と理詰めで主張していた。
後年、清原和博氏が巨人時代に「俺は『ワイ』なんて、生まれてこの方使ったことない」と報道陣に申し入れたのに似ている。無意識に言ったこともあったかもしれないが、イメージが定着しすぎて、聞いていない人まで聞いた気になっていたのだろう。
とはいえ「ええで節のウエさん」と親しまれ、それで当時閑古鳥が鳴いていたパ・リーグの試合にお客さんが少しでも増えてくれるなら、まぁいいかと容認していた。
人一倍几帳面でせっかちだが、パ・リーグの人気を上げるためとなると鷹揚にもなれた。そのギャップも魅力だった。(宮脇広久)
【葬儀】通夜は5日午後6時、告別式は6日午前10時から、いずれも公益社会館たまプラーザ(横浜市青葉区美しが丘2-21-4)で。喪主は妻・勝子(かつこ)さん。
