歴代最高の「ワンポイント投手」は?

 西武、福岡ダイエーなどでリリーフ投手として活躍した永射保氏(享年63歳)が6月24日に死去した。永射氏は、当時から希少だった左のサイドスローで、82、83年には広岡達朗監督時代の西武で日本シリーズ連覇に貢献した。

 永射氏は当時、リーグを代表する左の強打者だったロッテのレロン・リーをカモにするなど、「一人一殺」のいわゆる“ワンポイントリリーフ”の先駆けとも言われる存在として知られている。永射氏を「史上最強のワンポイント救援投手」と評する声もあるが、過去にはどんな投手がいたのか。

 日本球界最初のワンポイント投手、というのは定義が難しいが、戦略として早い時期から活用していたのが、1950年代から西鉄や大洋の監督として「知将」「魔術師」などの異名をとった三原脩だ。当時は先発投手が完投するのは当たり前の時代だったが、稲尾和久や秋山登のような大エースが登板した際に、ピンチの場面で苦手な打者の登場時にリリーフを送った。この時、稲尾や秋山はサードや外野に回り、リリーフがピンチを抑えた後は、再びマウンドに戻るという現在ではほとんど考えられないような起用法だった。

ピンク・レディーの「サウスポー」のモデルともなった、クラウン時代の永射保さん=1977年、後楽園球場(c)朝日新聞社 © dot. ピンク・レディーの「サウスポー」のモデルともなった、クラウン時代の永射保さん=1977年、後楽園球場(c)朝日新聞社

 投手の分業制が確立され、リリーフ投手の地位が上がり始めた1980年代になると、永射の他にも、いわゆる「左殺し」と呼ばれる左腕のワンポイント投手が登場し始めた。80年代に黄金時代を築いた広島には清川栄治がいた。永射と同じ左のサイドスローの清川は、北別府学や川口和久、大野豊など、豪華な顔ぶれが並び投手王国と言われたチームで、プロ4年目、登板106試合目にして初勝利という珍記録も持つ。広島では、94年に本塁打王に輝いた大豊泰昭に強かった小早川幸二、全てリリーフ登板で稲尾和久が持つ当時の年間最多登板の記録に並んだ菊地原毅などに、その系譜は引き継がれた。

 90年代後半になると、阪神の遠山奬志が「松井秀喜キラー」として名を馳せた。ドラフト1位入団ながら、一時は野手転向もした遠山だが、トレード移籍した千葉ロッテから阪神に復帰後、野村克也監督のもとでリリーフ投手として再起した。右のサイドスローの葛西稔と相手打者の左右によって一塁と投手を交代する「遠山、葛西リレー」は話題になった。

 90年代後半には、パ・リーグの各チームで左のワンポイント投手が目立った。トレードで近鉄に移籍した清川の後釜的存在となった柴田佳主也は、初勝利がプロ10年目、登板168試合目と清川を上回り、プロ唯一の黒星が1球敗戦という記録も持つ。同時期には、西武に杉山賢人、オリックスには水尾嘉孝というリリーフ左腕もいた。2人ともドラフト1位入団(水尾は横浜大洋)で、先発やロングリリーフでも活躍した投手だが、ワンポイントとしての起用も多かった。そして同時期のリリーフ左腕の代表格ともいえる存在だったのが、千葉ロッテなどで活躍した藤田宗一だろう。入団以来、5年連続50試合登板を記録するなど、史上初の初登板から500試合連続リリーフ登板を記録し、通算600試合登板が全て救援登板という藤田は「左キラー」のワンポイントとしても活躍した。

 最近では、中日の小林正人や高橋聡文(現・阪神)、ヤクルトの久古健太郎、阪神の高宮和也、西武の小石博孝などの名前が挙がる。特に小林はサイドスローから繰り出す切れ味鋭いスライダーが武器の、いわゆる「正統派」の左キラーだ。今季、ソフトバンクから巨人に移籍した森福允彦も、近年はワンポイントでの起用が増えていた。

 ここまで左腕限定で名前を挙げたが、右投手でワンポイント的な起用が多かったのが横浜の木塚敦志だ。サイドスローからキレのあるストレートに加えて、多彩な変化球を操った木塚は、07年には76試合に登板し、打者1人のみの登板は33回で被打率.161と起用に応える投球を見せた。球団名がDeNAに変わった現在、この木塚の系譜を継いでいるのが加賀繁で、変則派を苦手とする外国人相手の登板というケースがしばしば見られる。投手分業化や専門化がますます顕著になっている現在、こうした「右のワンポイント」で名を売る投手も増えてくるのかもしれない。

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