前代未聞サポーター蹴り上げ出場停止

写真左がカントナの通称“カンフーキック”。右はエブラのハイキック。 © photograph by Stephane Mantey - Action Images/Panoramic 写真左がカントナの通称“カンフーキック”。右はエブラのハイキック。

 11月2日、パトリス・エブラがヨーロッパリーグのギマラエス対マルセイユ戦でマルセイユサポーターに回し蹴りを喰らわせた事件は世界中に衝撃を与えた。

 試合前の退場、しかも自分たちのクラブのサポーターに暴行を加えての退場など、ヨーロッパリーグではもちろん大きな国際大会でも前代未聞である。

『フランス・フットボール』誌11月7日発売号ではクリストフ・ラルシェ記者がこのエブラの事件と、今から20年以上前の1995年、エリック・カントナがマンチェスター・ユナイテッド対クリスタルパレス戦で相手サポーターにカンフーキックを見舞った事件を比較検証している。

 ふたつの暴行事件は何が共通していて何が異なっているのか。共通項が多いように見えるふたつの事件の違いを、ラルシェ記者が浮き彫りにする。

監修:田村修一

大観衆に囲まれても冷静な2人が、なぜ爆発したのか?

 20年以上の時を隔てて、ふたりの頑固者がサポーターに向け乱暴に足をあげた。

 一見、ふたつの行為は似通っているように見える。だが、その状況はまったく異なっていたのだった。

 鞭がしなるような高速左回し蹴りと、相手の胸を突きさすカンフーキック――22年という長い時間を隔ててふたりのフランス人サッカー戦士は、日ごろの悲惨な生活から一時的に逃れようとスタジアムにやってきたサッカー好きの1人の観客を黙らせるために、高度な格闘技の技を駆使したのだった。

 母親への侮辱と、止むことのない罵詈雑言の数々――1995年1月25日にエリック・カントナがレフリーへの暴言からレッドカードを受けてセルハースト・パークのピッチを去るとき、頭の中は怒りで沸き立っていた。

 一方のエブラはこの11月2日もベンチスタートの身に甘んじながら、成し遂げた栄光がすべて過去のものに過ぎなくなった悲しい現実と向きあえずにいた。

 メジャーな国際大会で熱狂の坩堝と化した6万人もの観客の前でも、外科医のような冷静さを保ち続けることができる彼らほどのアスリートでありながら、なぜ2人は、ごくありふれた試合で我を失いごろつきと化してしまったのか……。

「言語道断」「クラブのイメージを大きく損なった」

 カントナが暴行に及んだのはプレミアリーグ16位のチームとの対戦に際してであり、エブラの場合はヨーロッパリーグの序盤戦、グループIでの試合であった。

 どちらも表情は苛立ち、冷たい怒りが宙で弧を描いた足に込められていた。

 行為それ自体には、かなりのディテールの違いがある。

 カントナが怒りの矛先を向けたのは相手チームのサポーターであり、極右思想にかぶれた前科者であった。

 エブラの場合は、マルセイユのアウェーゲームに常に帯同するマルセイユのサポーターグループ「ファナティックス」のメンバーのひとりだった。

 世界中に配信された両者の映像に対しては、同じ言葉が浴びせられた。

「言語道断」

「クラブのイメージを大きく損なった」

 などなど――どちらに対しても処罰を宣告する日にちが定められた。

 マンチェスターでもマルセイユでも、クラブの幹部たちはふたりに容赦のない罰を科するものと見られていた。ふたりの唯一の違いと言えば、超ベテランの域にさしかかったエブラに対し、カントナはキャリアのピークを迎えていたことだった。

プレミアの流れを変えた、カントナのプレーの数々。

 マンUに移籍して2シーズン半を過ごしていたカントナは当時28歳。

 チームのキャプテンであり、2つのリーグタイトルとひとつのFAカップを獲得していた。

 そのプレーのビジョンはこれまでのプレミアリーグにはなかったものであり、重ねられるゴールの数々とシャツの襟をピンと立てた姿は、彼を地元のヒーローに祭りあげメディアにも大きく取りあげられた。

 オールド・トラッフォードのスタンドには、常に赤白青の三色旗がはためいていた。

大嫌いか大好きか……カントナへの態度。

 カントナに対する好みは真っ二つに分かれた。

 イングランド人は、彼を称賛するか、それとも毛嫌いするか。

 いずれにせよカントナは“ザ・キング”だった。そしてカントナに大きな信頼を寄せていたアレックス・ファーガソンは、彼をギグス=ベッカム=スコールズ世代を成長させるためのピッチ上の指導者と見なしていた。

 だが、エブラはそうではなかった。

問題を解決するための移籍で、逆に問題児に。

 エブラもまた、新しいオーナーであるアメリカ人、フランク・マッコートの“マルセイユ再生プロジェクト”のリーダーとして、10カ月前にクラブに三顧の礼で迎えられた。だが、すでに36歳になるエブラがピッチに立つ姿を見る機会は、マルセイユに来る以前からそれほど多くはなかったのだ。

 新生マルセイユの主軸として税抜き250万ユーロの年俸を受け取りながら、彼は相手アタッカーに悩まされるとしばしばわれを忘れて熱くなるのだった。そのポジションはチームの弱点となり、自然とレギュラーの座から外された。

 チャンピオンズリーグ決勝出場5回(うち1回優勝)、プレミアリーグ5度優勝、ユベントスではスクデット2度獲得という輝かしい経歴も、衰えた姿を目の当たりにしたマルセイユのファンには何も訴えかけず、しばしば罵声を浴びるようになっていたのだった。

「僕はOM(オリンピック・マルセイユ)のエンブレムを再び輝かせるためにここにやって来た」と、今年1月にチームに加入した際、エブラは高々と宣言した。

 だが、9月になるとコメントはすっかりトーンダウンして言い訳の様相を帯びた。

「僕は問題児ではない。問題の解決のためにここにいるんだ」

共にマンUのキャプテンでマッチョな思想を持つが……。

 エブラとカントナ。

 性格も気質も対極な存在でありながら、ともにマンチェスター・ユナイテッドのキャプテンを務め、批判や敵意に満ちた攻撃に決して屈しないマッチョであるという点でふたりは共通している。

 また、どちらもフランス代表キャプテンの腕章を腕に巻きながら、あまり名誉とはいえない去り方で代表を離れている。

 カントナがカンフーキックを放ったとき、彼はフランス代表のキャプテンだった。しかし事件の後、当時の監督であったエメ・ジャケは、出場停止復帰後も2度とカントナを代表に呼ばなかった。

 エブラは「クニスナ事件(南アフリカワールドカップでの、選手たちの練習ボイコット事件)」の首謀者のひとりであり、チームのキャプテンでもあった。また、スパイ狩りを敢行してチームを瓦解させた張本人だった。

 その責任をとりいったんは代表を離れながらその後復帰し、2度と腕章を腕に巻くことはなかったものの、2016年にあったW杯予選スウェーデン戦を最後に引退するまでさらに49回の代表歴を重ねたのだった。

度重なる不祥事も、カントナは反逆のヒーローだった。

 カントナの履歴はより波乱に満ちている。

 幾つもの試合でユニフォームをピッチに投げ捨て、最初にカンフーキックを放ったのはナント対オセール戦でミシェル・デアザカリアンに対してだった。

 アンリ・ミシェル代表監督(当時)への「くそ野郎」発言。

 マルティニやルムール、カステンドゥック、トルコの警官らに浴びせかけたパンチの数々……。

 彼を愛する人々はカントナを体制への反逆者と見なしていた。

 マンUのサポーターやナイキ、ルノー、ロレアル、シャープ、ペプシといった国際イメージ戦略のため彼に広告料を支払っているスポンサーたちにとっては、カントナこそは崇高な殉教者であった。

結局……エブラには重い処罰が下されることに。

 現状ではエブラの今後は不確かである。

 事情聴取の後に、クラブから何らかの処分が下されるだろうし、UEFAも重い処罰を科するのは間違いない(註:結局この記事の後、UEFAはエブラを来年6月30日まで出場停止処分に処し、マルセイユは彼を契約途中ながら解雇した)。

 長い出場停止期間の間、彼はYouTubeや他のインスタグラムで自己弁護を饒舌に行うのだろうか、それとも黙って'95年のカントナ事件の物語を読み返すのだろうか。

出場停止中も、存分に人生を楽しんでいたカントナ。

 カントナは当初、クラブによりシーズン終了まで出場停止処分を受けた。

 カントナを欠いたマンUは、勝ち点1差でリーグ優勝をブラックバーンに奪われてしまった。その後、FA(イングランド・サッカー協会)は停止期間を9月30日まで延長した。その間、マンUのサポーターは、試合の度に「オー! アー! カントナ!」と彼のチャントを歌い続けた。ひとりの少女はわざわざ彼の家まで花束を届けに行った。関係者や諸機関、ジャーナリスト、ロンドンの社会からはみ出した若者たちの間で、カントナの神聖化はすでに始まっていた。

 当事者であるカントナ自身は沈黙を守り通した。

 出場停止中の彼は、セリエA・インテルからの熱烈な獲得オファーを受け続けながらも、結局ナイキとビックのコマーシャルに出演し続け、マンUとの契約も'98年まで延長した。

「バリエテクラブ(註:元著名選手とメディア関係者で構成されたサッカークラブ。プラティニはじめ著名人が名を連ねる)」の試合に参加し、モリッシーやジャーヴィス・コッカーらのミュージシャンたちが彼を支援した。

 また映画『しあわせはどこに』に俳優として出演し、銀幕デビューも果たした。さらにファンや関係者に懇願されて書籍も数点出版された。唯一の恐怖は2カ月間の禁固刑であったが、それもすぐに公共奉仕活動へと軽減された。

ファンもメディアも……みんなカントナを愛し続けた。

 '95年10月1日、カントナは永遠の支持者であるアレックス・ファーガソンに付き添われてリバプール戦のピッチに立ち、自らゴールも決めた。

 '97年シーズン終了まで彼はマンUのユニフォームを着つづけ、チームにさらにふたつのリーグ優勝をもたらした。

 カントナ伝説は、マンチェスターに今も根強く残っている。

「カモメ(メディア)が漁船(カントナ自身)の後を追いかけるのは、漁師たちがイワシ(事件ネタ)を海に投げ捨てるのを知っているからだ」という、カントナが事件の正式記者会見の際に語った言葉は、今日でも決して古びてはいない。

 それはエブラにも同じシュールレアリスムの頂点に達するために、大きなインスピレーションを与えるだろう。

 エブラもそこに到達するのは、十分に可能であるのだから。

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