4歳頃から 柿谷の波瀾万丈セレッソ愛

“ジーニアス”と称された男も27歳となった。才能の宝庫であるセレッソの旗頭として、初タイトルを手にすることはできるか。 © photograph by J.LEAGUE PHOTOS “ジーニアス”と称された男も27歳となった。才能の宝庫であるセレッソの旗頭として、初タイトルを手にすることはできるか。

 2005年12月3日、長居スタジアム。

 第33節を終えてリーグ戦首位だったセレッソ大阪は、勝てば初優勝が決まる最終節・FC東京戦の終盤までリードを保っていた。だが、歓喜の瞬間が訪れようとしていたスタジアムは一転、サポーターの悲鳴で埋め尽くされる。

 後半ロスタイム突入寸前の、今野泰幸の同点ゴール。

 最終節で優勝を逃すのは'00年のファーストステージ以来のことだった。

 再び起きた長居の悲劇を、翌年からのトップチーム昇格が内定していた15歳の柿谷曜一朗はスタンドから見ていた。

「プロに入る前で、ヤマちゃん(同期入団の山下達也)たちとスタンドで見てて。(追いつかれて)あんまり何も思わなかったですよ。自分が入る前に優勝したらおもんないな、というか」

 そうジョーク交じりに当時を振り返るものの、あこがれてきた森島寛晃や西澤明訓らが涙する姿を目の当たりにした。

柿谷とセレッソの縁は、4歳の頃から始まった。

 柿谷の歩みは、どこか育ってきたクラブの歴史と似ている。

 4歳の頃にセレッソのスクールでサッカーを始め、高校1年でクラブ史上初めて飛び級でトップ昇格。「天才」と称され多くの指導者に認められながら、度重なる遅刻を理由に'09年6月に徳島へと放出された。

 それでも徳島で地力をつけて'12年に復帰すると、後半戦からゴールを量産。'13年には東アジア杯で日本代表に初招集され、大会得点王となり初優勝に貢献すると、翌年のブラジルW杯に出場し、大会後にはスイスの名門バーゼルに移籍。だが、ここでまた不遇を味わったことで代表から遠ざかり、'16年にはJ2で戦っていたセレッソに再び復帰した。

波瀾万丈のキャリアはクラブの浮き沈みと重なる。

 柿谷曜一朗、27歳。

 波瀾万丈のキャリアは、優勝争いの翌年にJ2降格を3度も経験し“ジェットコースタークラブ”と揶揄されてきたセレッソの浮き沈みと重なる。紆余曲折を経て今、クラブの初タイトルを目指し、ルヴァン杯決勝の舞台に立とうとしている。

「ほんまに小さい時からセレッソにおったし、いろんな人にお世話になって、いろんなものを見てきたから。いや、見過ぎたかもしれない」

 '16年にセレッソへと戻ってきてからの道のりも平坦ではなかった。欧州での挑戦を終えて復帰した昨季、人生で最も大きなケガに悩まされた。

 6月8日のV・ファーレン長崎戦で右足関節靱帯を損傷。当初は保存療法で回復を目指していたが、8月に手術へと踏み切った。長期リハビリを経てピッチに戻ってきたのが、11月6日の愛媛FC戦。ギリギリで間に合った昇格プレーオフは準決勝・京都サンガ戦で値千金のゴールを挙げ、決勝のファジアーノ岡山戦ではフル出場して勝利に貢献した。

「足首の痛みは今もずっとあるし」

 J1復帰が決まった瞬間、柿谷はピッチに倒れて泣き崩れた。それと同時に、大一番に出場するためにリハビリを早めてきた体は悲鳴を上げていた。両足の太腿前側に発症した肉離れ。昇格の代償を払うかのような負傷だった。

「岡山戦が終わって、他のところも肉離れしていて。あの瞬間から、まったく動かないように(固定)したんで。自分はオペ(手術)も初めてで、足首の痛みは今もずっとあるし。慣れるか慣れへんか、というか……。今年の夏過ぎぐらいかな、気にならへんようになったのは」

 今季は尹晶煥(ユン・ジョンファン)新監督のもとで始動すると、2年連続で主将を託された。肉離れは治っていたが、メスを入れた右足首から違和感が消えない。感覚派のプレースタイルに、かつてない“異物”は余計にストレスだった。

久々の2トップに柿谷は生き生きとした。

 シーズン開幕後、主戦場としたのが本職のFWではなく左MF。サイドに起点を作りたい指揮官のもと、これまでと違う景色のポジションでプレーを続け、昇格1年目から上位を争うチームを支えてきた。

 手術をした影響が「気にならへんようになった」と本人が振り返ったのが、開幕から半年以上が経過した夏過ぎ。生き生きとプレーする姿を久しぶりに見たのは、それからしばらく経ってからだった。

 クラブ史上初の決勝進出を懸けていた、G大阪とのルヴァン杯準決勝第2戦でのことだ。

 山口蛍、杉本健勇ら代表勢を欠き、かつケガを抱えていた山村和也が間に合わなかったことにより、柿谷は澤上竜二との2トップで敵地のピッチに立った。均衡を破ったのは前半15分。秋山大地のパスからペナルティーエリア内に入り込み、巧みにDFをブロックしながら、左足で先制点を奪ったのが背番号8だった。

 セレッソは1度は同点に追いつかれたものの、試合終了間際に木本恭生の決勝点が生まれてファイナルへと進出した。試合後、柿谷はこう語っていた。

「勝負できるポジションにいられるのは、久しぶりやったんで」

 そう語る表情には、少なからず充実感があった。

「1年や2年でガンバに追いつける訳じゃない」

 天性の技術と瞬発力から生まれるトリッキーなプレー。自由な雰囲気を漂わせつつも、周りを意識する繊細さも併せ持つ。いまだに掴めないキャラクターの持ち主は、クラブが歩んできた道のりをどう見ているのか。

「波のあるチームと言われてきて、今のように結果が出ている状況にもなったことがあるし、でも翌年はどうやったか。それはそれでチームの色と言ってしまえば簡単だけど……。こうやって1年間、集まってサッカーをやる仲間として、その年その年にできることをするのはもちろんだけど、1年や2年、頑張ったからってガンバに追いつける訳じゃない。そういう目線でやらなあかんというのを本当に思っている」

ユニホームに初めて星を刻むのは自分たちでありたい。

 大阪ダービーでFWとしての適性を再び証明したことから、ルヴァン杯決勝の川崎フロンターレ戦も2トップの一角で先発出場することが濃厚だ。クラブとして長期的な強さを求めていく一方で、初タイトルを懸けたこの一戦が特別な意味を持つことは分かっている。

 川崎とは9月30日に対戦し1-5と大敗。それでも「キヨが帰ってきてガラッと変わった。今までとは違うチームという感覚がある」と言うように、長く離脱していた清武弘嗣が2列目に戻ってきたことにも手応えを感じている。

「小さい頃からこのクラブで育ってきて、そのメンバーが歴史の最初のページを刻むのは大事なことやと思うし、先頭に立ってやれるようにしたい。このユニホームに初めて星を付けるのが自分たちであることを願っているし、そうしたいと思っている」

 12年前、涙に暮れた長居のスタンドにいたセレッソ大阪U-18の選手が、時を経て、歴史を変える戦いに挑む。左腕にキャプテンマークを巻いて――。

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