「世紀の凡戦」アリ・猪木戦の真実
【BOOK】村松友視さん『アリと猪木のものがたり』河出書房新社1600円+税
約40年前、ボクシングのモハメド・アリとプロレスのアントニオ猪木が闘った“格闘技世界一決定戦”を覚えているだろうか。壮絶なファイトを期待したファンからは「世紀の凡戦」とバッシングを浴びた。あの一戦と改めて向き合った著者の主観的『真実』とは…。(文・梓勇生 写真・桐山弘太)
--なぜいま、アリ・猪木戦なのでしょうか
「直接のきっかけは昨年、アリが亡くなったことですが、ずっと僕の中で『忘れ物』のようにひっかかっていた。(デビュー作の)『私、プロレスの味方です』はプロレスに対する世間の上から目線(蔑視)と対極のスタンスに立って書いたんですが、この試合については“なでる程度”にしか触れられなかった」
「それは当時、まだサラリーマン(出版社編集者)だった僕が、世間の批判や嘲笑という価値観に刷り込まれてしまい、反論すべき言葉を持ち得なかった、及び腰になっていたからです。物書きとして、書くべきことを書かなかったという“後ろめたさ”が僕の中にずっとありました」
--2人のバックグラウンドや「奇跡」とも思われた試合が実現するまでの経緯が興味深いです
「当時のアリは、世界に冠たるチャンピオン、スーパースター。アリから見れば、猪木さんは名前も知らない一介の極東のプロレスラーに過ぎませんから、闘うメリットなどなかったでしょう。黒人への人種差別問題などを掲げてきたアリには(東洋人の猪木との一戦は)『対立軸』を描きにくい試合でもあったと思います。それが、猪木さんのことを知るにつれてだんだんと関心を持つようになったと思う。『オレ(アリ)の知っているプロレスとは違う。猪木とやるのも面白いんじゃないか』って」
--「猪木のプロレス」とは
「“プロレスの決まりごと”から、はみ出したものがあると思わせる試合、『本身(真剣)の殺陣(たて)』のようなものを僕は『過激なプロレス』と呼んだのですが、それがアリには“信号”となって届いたのだと思います。(柔道の五輪金メダリストの)ルスカと猪木さんが闘った異種格闘技戦(1976年2月)も実現のバネになったと思いますね。五輪チャンピオンと“過激なプロレス”をやった猪木さんにそそられた部分があったのでしょう」
--だが、ルールは次第にがんじがらめになる。猪木はプロレス技をほとんど封じ込められ、寝そべってキックを繰り出すほかなくなっていきます
「アリ自身は、ルールで縛らなくても自分のパンチのスピードをもってすれば、一発で仕留められるという自信があったと思います。危機感を抱いたとすれば『陣営』の方じゃないですか。猪木さんも、あれだけキックを受けたらアリもいつかは動けなくなってつかまえることができる、と考えていたでしょう。ところが、アリは倒れなかったし、猪木さんも疲れたりしなかった。闘っているうちに『2人にしか分からない』こと、互いのバックグラウンドも超越した何かが生まれていったのだと思います」
--アリと猪木は試合後、不思議な絆で結ばれてゆく、と
「あの試合でアリが得たメリットは何もないどころか(猪木のキックで受けた)身体的なダメージはその後の選手生命にも影響を及ぼしたくらい。それなのに2人の関係は“不思議な点線”でつながってゆく。特に(1995年に)僕も一緒に北朝鮮へ行ったときのことが強く印象に残っています。アメリカ政府の反対を押し切ってアリが参加したのは、猪木さんとの絆以外には考えられませんね」
--本書は、日本プロレス史という側面も持っている。いまだに「ナゾ」が多い、伝説の力道山・木村政彦戦(1954年)も会場で観戦していますね
「中学生でした。この試合についてはその後もいろんな分析がなされていますが、検証なんてできないし『ナゾ』にしておいた方がいいこともある。この本に書いたこともあくまで僕の主観であり、直感的解読として読んでほしいのです」
■内容 1976(昭和51)年6月26日、ボクシングの世界チャンピオン、モハメド・アリと新日本プロレスのスーパースター、アントニオ猪木が東京の日本武道館で対戦した。リングに寝そべったまま、アリの足へのキックを打ち続ける猪木と、ほとんどパンチを出す機会もなかったアリの姿(結果は引き分け)にファンは失望し、マスコミからは批判を浴びた。著者は、改めて試合が実現するまでの経緯や2人が抱えてきた背景を丹念に調べ直し、世紀の一戦の「意味」を解いてゆく。
■村松友視(むらまつ・ともみ) 1940年、東京生まれ。77歳。慶応大文学部卒。出版社の編集者を経て80年、ベストセラーとなった『私、プロレスの味方です』で作家デビュー。82年『時代屋の女房』で直木賞受賞。97年『鎌倉のおばさん』で泉鏡花文学賞。主な著書に『北の富士流』『ファイター 評伝アントニオ猪木』『力道山がいた』『黒い花びら』など。